「百生人」って何?
2008.02.11
■百姓の意味を再認識してみる
「百姓(ひゃくしょう)」という言葉は、差別用語、不快用語、放送禁止用語とされています。
農業界で働く者として、このまま放置しておくには、どうも忍びありません。
そこで、「百姓」という言葉を、再認識、再定義してみたいと思います。
なぜならば、言葉の定義が変われば、言葉に対する人の価値観は変わるからです。
たとえば、仏教語の「我慢」の本来の意味は、「自分を過信し、自惚れること」でした。
……ということは、「我慢強い人」とは、「自惚れの強い人」という意味になります。
また、「分別」の本来の意味は、「妄想」です。
……ということは、「分別ある人」とは、「妄想が得意な人」ということになります。
いずれも、本来の言葉の意味と、現代の解釈とは大違いです。
そして、人の価値観も。
「●●さんって、本当に我慢強いんですね!尊敬します」……って、本来の意味からすれば、かなり嫌みです。
「私の子供は、●●先生が担任なんです。とても分別ある方なので本当に良かったわ!」……って、なんか、ちょっと心配です。
まぁ、そんな変な妄想を抱いているのは、私だけだと思いますけど(苦笑)。
話を元に戻しますが、これらの例え話のように、言葉の定義が変われば、人の価値観も変わります。
「百姓」という言葉についても、本来の意味と現代の解釈に大きな違いがあるかも知れません。
まずは、言葉の本来の意味から調べてみました。
■百姓とは大御宝だった!?
「百姓」の定義は時代によって大きく変化してきました。
「百姓」という言葉が、職業としての「農民」を意味する言葉として一般的になったのは、明治以降だと考えられています。
それ以前の「百姓」の意味は、それとはまったく違った意味を持っていました。
「百姓」とは本来、「ヒャクショウ」ではなく、「ヒャクセイ」でした。
「百」の「ヒャク」は「たくさん」を意味し、「姓」の「セイ」は「姓(かばね)」を意味しています。
「姓(かばね)」とは、天皇から氏族に与えられた身分や職能のことです。
律令制下では、「姓」を持つ、貴族、官人、公民、雑色人の全ての階層の人々のことを「百姓」と呼んでいたのです。
つまり、「百姓」とは「たくさんの姓を持つ人々」のことを意味していたのです。
そして、「天皇(スメラミコト)」は、「百姓」のことを、「大御宝(オオミタカラ)」と呼んでいました。
広義に解釈すれば「天下万民」のことを意味していたからでしょう。
『日本書紀』の、「神武天皇の建国の詔」には、こう記されています。
「恭みて寶位(たかみくら)に臨みて、元元(おおみたから)を鎮むべし」
意味は、「謹んで高御座に即位して、大御宝の魂を治めよう」と。
これらのように「百姓」の本来の意味は、「天皇(スメラミコト)」の「大御宝(オオミタカラ)」のことであり、「天下万民」のことでした。
長い年月がかかって変化したとはいえ、「大御宝(オオミタカラ)」と、放送禁止用語とでは、大きな違いです。
「我慢」や「分別」の違いどころではありません。本当に驚きです。
それにしても、なぜ、そこまで大きな違いが生じてしまったのか?
その理由については、割愛しますが、もしも、興味のある方は歴史学者の網野善彦の著書などに参考にしてみるとよいでしょう。

■百姓を蔑むプロパガンダ!?
と言いつつ、網野善彦の研究とはまったく関係なく、私はこう思っています。
もしかすると、差別用語、放送禁止用語にすること、それ自体が、ある種のプロパガンダだったのではないか、と。
でも、何のために?
それは、若くて優秀な人材を、農村から離脱させるためです。
今現在、中国で起こっている、農村部から都市部への労働力の大移動が、日本でも戦後の経済成長期に起こりました.。
大ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の時代です。
その時代、都市部は、農村部からの、賢く若く安い、労働力が必要でした。
事実、集団就職などによって、農村から多くの労働力が流動したわけですが、その動機には、都市部への憧れは勿論ですが、同時に農村部の侮蔑の思いもあったのではないかと。
都市部の華やかさを表現した、映画、ドラマ、マンガ、小説などは数知れず、です。
それらの作品を観て、農村に住む少年少女が都市部への憧れを抱くのは当然のことでしょう……。
作品の制作が、労働力の流動を意図していたのか、あるいは単なる偶然だったのか、それは分かりませんが、そのことによって、労働力の流動が加速化したのも事実でしょう。
そして、都市部への憧れだけでも、少年少女が農村を離脱する動機としては十分だったかも知れませんが、同時に農村部の暗部もクローズアップされました。
儲からない農業、格好悪い農家、冴えない田舎者、農村の重いしきたりと村八分、意地の悪い百姓、ダサイ村の青年。
そのことをイメージする、映画、ドラマ、マンガ、小説などは数多くあります。
私の記憶にあるものだけでも、『砂の器』『楢山節考』『はだしのゲン』『カムイ伝』『おしん』『赤き血のイレブン』『北の国から』『いなかっぺ大将』『にほん昔ばなし』など、でしょうか……
(時系列じゃなくて申し訳ありません)
『おしん』『北の国から』などのテーマは、決して「農家=百姓」「農村=田舎」を蔑んだものではありませんが、少年少女の心にはポジティブな映像としては映らない場合もあるのではないかと思います。
『北の国から』では、農家が無農薬栽培に挑戦するという、現代的でイノベーションを促すような出来事を取り上げているのですが、結果的にその農家は村八分になり、「農村=村八分」という農村のネガティブな印象を与えています。(現在でも村八分では実在しています)
これらの作品も、労働力の流動に少なからず影響を与えた可能性はあります。
そして、何よりも「百姓」という言葉をタブーにしたこと自体が、「百姓」という存在を隠匿することになり、マイナスのイメージを与えたのではないかと思います。
タブー化、隠蔽化することが、実は問題をますます大きくしてしまう、という事例は枚挙にいとまがありません。
つい最近では、耐震強度偽装問題、賞味期限偽装問題、産地偽装問題しかりです。
「百姓」という言葉を放送禁止用語にすることで、「農家=百姓=侮蔑」のイメージを広めることが意図的だったとすれば、そのプロパガンダは大成功だといえるでしょう。
■農家が百姓の地位を下げた!?
また、プロパガンダとは関係なく、実体験として非農家の人が、農家に対しネガティブな感情を持つ人も少なからずいます。
戦後の食糧難時代に、空腹に苦しむ非農家の庶民を相手に、闇米、闇市などで私腹を肥やした農家が大勢いたのも事実です。
私は、70代~80代の農家の方から昔話を聞くことをライフワークにしていますが、「お米を賄賂にし、警官や役人をたらし込んでいた……」などの類の話は珍しくありません。
今では信じられない話ですが、食糧が不足していた時代、「お米」は紙幣と同等、あるいはそれ以上の価値があったんです。
非農家だった私の親類は、親の言いつけで、サツマイモの買い出しを命じられ農村に出掛けて行き、農家に「お願いです!サツマイモを売ってください!」と、泣きながらお願いしたけれども、法外な値段を吹っ掛けられ、泣く泣く帰宅した経験があるといいます。その親類は60歳を過ぎた今でも、「だから俺は百姓が大嫌いなんだ!」と、私に言います。
たしか、学校の図書室にあった『はだしのゲン』に、似たようなシーンがあった記憶があります(間違っていたらごめんなさい)。
さらに、近年ではタダ当然の農地を宅地に転用し、不動産収入で大儲けしている、名ばかりの農家も少なくありません。
言葉の表現は汚いかも知れませんが、節税のためだけ、あるいは政府からの補助金を受け取るためだけの、自称農家が大勢いることは紛れもない事実です。
もちろん、このような事例は全体の僅か一部に過ぎないのかも知れません。
しかし、『火のないところに煙は立たぬ』という言葉もありますように、農家自身の自らの行為によって「百姓」の地位を下げてしまった。そういう一面もあるのではないでしょうか……?
■百姓は百生である!?
最後は、視点を少し変えて、「言霊学(ことたま)」的に「百姓(ヒャクセイ)」に読み解いてみましょう。
言霊学とは?
結論から言ってしまいます。
「ヒャクセイ」を「言霊学的」に解釈すると、当てはまる漢字は「百姓」ではなく、「百生」となります。
「ヒャク」には「百道(モチ)」という意味と、「たくさん」という意味があります。
「セイ」は、「生きる」「生かす」「生命」「生む」などの「生(セイ)」のことを意味しています。
そして、「ヒャク」+「セイ」=「たくさんの生命」という意味になります。
この「たくさんの生命」が意味しているのは、人間のことだけではありません。
古神道的に、「たくさんの生命」とは、その土地の神々や精霊、禽獣蟲魚、山川草木などの、生きとし生ける全ての存在のことを意味します。
つまり、「百姓=ヒャクセイ=百生」とは、生きとし生ける全ての生命を生かし、共存共栄するという生き方、人生観、ライフスタイルのことを意味しているのです。
そして、そのことを前提として、農産物を育てること、育てる人のこと「百姓=百生」を意味しています。
「言霊学的」には、そう解釈することができます。
このように「言霊学的」な視点での「百生」と、従来の「百姓」とでは、読み方は同じでも、意味する世界観はまったく異なります。
もちろん、その世界観に対する価値観も、それぞれ違うことでしょう。
その価値観を押しつけるつもりなど、毛頭ありません。
■農村の新たな対立闘争のタネ!?
ただし、農業界で仕事をする私としては、「ヒャクセイ=百生」という解釈は、とてもしっくりきます。
完璧にピッタリです。
近年、「有機農業」「環境保全型農業」「自然農法」「不耕起栽培」「無肥料栽培」などの、数々の「●×農法」などの、自然環境に負荷を与えないとされる農業技術のスタイルが普及し、その名称も認知されつつあります。
しかし、正直、私にはどの言葉も、しっくりきません。
それらの言葉が持つ潜在的な意味が、どれもある種のイデオロギー的、宗教的、政治的な臭いがするからです。
例えるならば、「自分が実践している農法が、一番正しい、環境のため、世の中のためなんだと……」という臭いです。
そのような意図がなかったとしても、差別化した結果として、対立闘争の要因になる場合があります。
キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教。
いま世界で起こっている対立闘争、宗教戦争の要因です。
自民党、民主党、公明党、共産党。
いま日本で起こっている対立闘争、政治闘争の要因です。
有機農業、有機農業、自然農法、不耕起栽培。
いま農村で起こりつつある対立闘争の要因になりつつあります……。
「えっ?ウソでしょ?」
いいえ、これは事実です。
様々な農法の違いが、農村での新たな対立闘争を引き起こしつつあります。
これでは、宗教戦争、政治闘争と何ら変わりありません。
正直、バカバカしいです。
しかし、それが現状です。
■百生人になろう!
まぁ、長々と色々と書きましたが、本当の理由はともかく、放送禁止用語となってしまった「百姓」という言葉。
そして、新しい対立闘争の要因となりつつある、有機農業、有機農業、自然農法、不耕起栽培という、各種の農法名。
この際、これらの言葉は、捨て去り、「ヒャクセイ=百生」という言葉を使い、農業、農村に対する、価値観を新たにしてはいかがでしょうか?
私は、「生きとし生けるものたちの生命を生かす」、という意味の「百生(ヒャクショウ)」という価値観が広がり、その価値観に生きる人が一人でも多く増やすことを、自分のミッションにしています。
そして、その価値観に生きる人のことを「百生人(ひゃくしょうじん)」と定義しています。
まぁ、「百生(ひゃくしょう)」でも、「百生人(ひゃくしょうじん)」でも、どちらでも構わないのですが、「私は百生人です!」と、堂々と宣言できる人が増えて欲しい、そう思っています。
なぜならば、そのことが、「高天原の農行(農業)」への最初の一歩だからです。
高天原の農行とは?
話が長くなってしまいました。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
そして、肝心のご挨拶が大変遅れ、失礼しました。
ようこそ!「農援隊」のホームページへ!
ようこそ!「高天原の農行(農業)」の世界へ!
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